ヰンダルジェンス

はやく主人公になりたい。(日々を可能なかぎり文学的に書き残す、私なりの彼との全記録)

ヒポクリトの幸福論

人は誰だって幸せになりたい、という前提で世の中は動いています。幸せになるための節約術。占い。片付けの方法。お金のやりくり。生きとし生けるもの全て自分の幸せの方に歩みを進める――なんとも滑稽です。本気で幸せになることが幸せなのか、誰もわからないのに。

穏やかな土曜の午後、草木の香りが鼻をくすぐり初夏の匂いを楽しみながら、私は芝生にしいたビニールシートの上で、煙草を吸いにいった彼を待っていました。前の日の晩から用意したちょっと豪華なサンドイッチを食べて、ビールを飲んで、ああ、この上のない幸せ。空は晴れていて、気候は暖かく、風は爽やかで、日差しは強すぎず、子供達のはしゃぐ声が聞こえます。幸せそのもの。その幸せに包まれたまま、私は唐突に不安に襲われました。

ふと思いました。今、私は携帯電話だけを持ってどこかに走って逃げてしまおうかと。私はもしかしたら、自分で作った完璧な幸せを自分の手で終わらせなければ満足できないのかもしれないのです。完成したものを誰にも触れられないように守り、壊れてしまうならその前に壊してしまいたい。永遠にこの瞬間を閉じ込めてしまいたい、それができないのなら。

……そんなことを考えていたら煙草を吸い終わった彼が帰ってきました。私はまた、黄金色の午後の穏やかな空気の中に引き戻されて深く息を吐きます。まだ続けよう。もう少しだけ。まだあと少しなら幸せになってもいいかもしれない――私は幸せが恐ろしいのです。黒い、ぬたぬたとした影のようなものに足を取られかけていた私の肩に彼の手がそっと触れました。彼はお日様みたいな顔で笑います。「ただいま」「おかえり」。

 

"自分がどこまで壊れられるか見てみたい"、という欲望は人間であれば多かれ少なかれ持っているものです。もともと私は破滅的な性分で、しょっちゅう自分を壊そうとしていました。叩いて壊して、まだ大丈夫、まだ大丈夫と確認し続けること。それが不特定多数とのセックスに現れる人もいれば、私のように自分を可能な限り不幸に追いやって安心する人も居ます。

ただ、ある程度その破壊行為に慣れてしまうと、今度は自分が壊れていないと安心できなくなってしまうのです。コンフォートゾーンが不幸で固定されてしまう。そうすると、幸福の方に這い上がるのはとてもとても難しくなります。

 

久々に昔話です。

私がKに対してはじめの頃抱いていたのは、圧倒的な高揚と興味でした。恋愛感情というよりは、どちらかというと所有の欲求。Kが何かを直感的に感じ取ったのと似たような嗅覚で、私は思ったのです。多分この男は、私の虜になって満足させてくれるだろうと。

一部のサディストの男性は、なんといいますか、変に鬱屈したナルシズムをお持ちです。私の当たりが悪かったのか、それとも帰納的に全体がそうだと言えるのかはわかりませんが、サディストの男性のそういうところが苦手でした。なんというか、彼らの鬱屈とした面が垣間見えてしまうと、なんとなく気まずくなってしまうのです。アイドルがステージ裏でパニック発作を起こしてしまっているのを見るような気持ちになります。見てはいけないものを見てしまったような、もっというなら「見たくなかったものを見せつけられているような」気持ちです。

しかしKにはそういう鬱屈としたところが全く見えませんでした。至極、真っ直ぐに生きてきたその空気感。私にはないものでした。――後にいろいろ知っていくと、彼もそれなりに問題を抱えていて歪んだ価値観が根付いているのがわかるのですが……それを知って余りあるほど、彼の屈託のなさは私の興味を引きました。

逆にいえば、彼を恋い慕う感情は最初ほとんど発露しませんでした。興味、高揚、所有欲、狩をする人の気持ち。殆どそれは、「自分がどこまで壊れられるのか」という好奇心に近かったのだと思います。私は自分を破壊してくれる人を待っていたのです。それがいかにして変わっていったのか。あんなにも恐ろしいと思う幸せのために壊れた自分を再構築していくことを選んだのか、正直にいうと、自分でもよくわからないのです。

 

ただ、深く深く印象に残っている夜があります。まだ桜の咲いていた頃です。ふと思い立って私たちは家から少し離れた公園に夜桜でも見に行こうと決めました。まだ薄寒い日でした。

駅前のスーパーでビールと唐揚げを買って、私たちは山の頂上の桜の見える場所を目指し、暗がりの山道を登って行きました。息が切れ、もうやだかえろうくらいくらいと言いながらも歩いて登り、ようやくたどり着いた山頂では夜桜が咲き月がよく見え、一体死体でも埋まっているんじゃないかと思うほどの景色を私たち一人、いえ、二人占め、でした。

私たちは唐揚げをつまみビールを片手にいろいろなことを話しました。

「桜にお酒、花見で一杯」「なにそれ」「花札の目。桜とお酒で"花見で一杯"、月とお酒で"月見で一杯"」「へえ」「今夜は桜も月も見えるから"花月見"!」

「俺はあんな大人にはならない」「私は大人になんてなれないかもしれない」「なれる、なれるよ。ゆっくりでいい」

「お父さんをね、愛してるの」「うん」「絶対的な承認が欲しかった」「それはね、無理なんだよ」

身のあるような、ないような話をのらりくらりと。Kは、私が深く関わってきた誰とも違いました。大好きだった恋人でもない。好意を寄せてくれていた作家先生でもない。ましてやただの好青年でもない。

でもふと気がついたのです。ああ随分長い間私は異常な状況にいたものだ。煮詰まってドロドロになった愛を、マグカップに一匙入れてお湯で薄めて飲むような。でも私はきっと、こういうふつうの幸せ――まさに桜と月を見ながらビールを飲んでどうでもいいことを話すというような――が欲しかったんだと。

彼の話を聞いているうちに私は泣きそうになってしまいました。一体なにが彼をこんなに大人にしたんだろう。一体なにが彼をこんなに追い詰めるのだろう。甘えたことがないのなら、甘えることが下手くそならば、私が彼を溺愛したいと。彼を愛することで救われたいと。思ったのです。

Kの人生における"女"の役割全てを私が負いたい。彼を幸せにした時、私は幸せになれるのではないか。なぜかそう思いました。それはとても、かなしく、あたたかく、いたいほどうつくしい感情でした。それを偽善だというなら私はそれでも構わないと。泣きそうになりながら私は思ったのです。

山を降りていく途中の道はすっかり真っ暗で、誰も通らずあかり一つなく。夢気分で降りていく私をおいてKはすたすたと下山して行きました。途中で彼は立ち止まって、振り返り私を待ちました。暗がりの中で一度だけキスをして、私たちは大人しく家に帰りました。

こういう、当たり前の、ふつうの、幸せなことがしてみたかった。でも、やはりそれを怖がる気持ちはどうしてもどうしても私の頭にこびりつき、その腐臭はアラビアの香料を撒き散らしてもとれないような強烈なものでした。

 

何かが切り替わったのは多分私だけではなく、彼もだったのだと思います。それまでの彼はどこか何かを遠慮していて、私の加減を伺いながらあらゆる事をこなしていました。

花見から帰って、Kは私の首に手をかけました。滅多に気管は絞らずに、真綿で首を絞めるように頸動脈を潰す指と指。その時私は彼に苦しめられることでバランスを保つのかもしれない、と思いました。そうして組み敷かれたまま掠れた声で言ったのです。

 

「もっと興奮できるでしょ」

 

そこからぷっつりと記憶が途切れています。覚えているのは腹の底から溢れる笑いを嚙み潰しそれでも嗚咽そっくりの引きつった声が抑えきれないKの姿です。彼の端正な顔は支配の興奮に歪んで、こめかみや目の下が痙攣していました。

多分その時、Kのなにかも上手に壊れてくれたのだと思います。私は私を壊させて、彼の心を縛ることができるとその時確信しました。

ああ私の幸福、私の不幸。私の理性、私の狂気。私の光、私の影、私の神様、私の悪魔。全ての表と全ての裏を、私は吐き出すように彼に見せました。

 

 

今でもふと、特に冒頭に書いたような、絵にすらなりそうな穏やかで幸せな午後に、私は突然逃げ出したくなります。でも私は、自分の偽善的な思いをとても尊いと思います。そう簡単に手離すつもりはないのです。

それを手放す時は、きっと私が元いたところに帰る時。黒い渦の中に戻りたいのか?――その質問に私は答えられません。ただ、もしも彼がその澱の中に浸ろうといって私の手を引くのなら、躊躇わずに入っていくでしょう。

 

所詮偽善者、性善説性悪説もそこにはなく、ただ信じる男の後に続いて幸福論を唱えるだけ。そんな人生もなかなか幸せかと。