ヰンダルジェンス

はやく主人公になりたい。(日々を可能なかぎり文学的に書き残す、私なりの彼との全記録)

時よ止まれ、

 

Verweile doch, du bist so schön!

時よ止まれ、汝はいかにも美しい!

 

この世の全てを知り尽くした天才ファウストの元に、ある時黒い犬が現れます。その犬は、悪魔メフィストフェレスが化けたものでした。

「学問を究めたあとですら利口になっていない」と嘆く老齢のファウストに、メフィストフェレスは契約を持ちかけるのです。その老いた肉体を若い体へと戻してやろうと。「そのかわりお前の魂は私のものだ」。そう笑う悪魔にファウストは言うのです。「ああもしその瞬間が訪れたら私は言うだろう、"時よ止まれ、汝はいかにも美しい"と」

悪魔と契約をしたファウストに、魂の救済は訪れるのか。ゲーテが描いたこの物語は長きにわたって人々に読み継がれています。あなたの契約という命題は人々をいたく惹きつけるようです。

 

 

Kと私の関係について考える時、私はいつもゲーテファウストを思い出します。悪魔との契約。私はKという悪魔によって幸せや喜びを保証されていて、その代わり私は肉体と精神の全てを彼に捧げる。最後には自分の眼球や、骨、魂までも彼のものとする。だとしたらそれはなんて甘美で厭らしいのでしょう。美への執念は悪魔主義者の専売特許、私はまさに美に浸り溺れる人生を選んだのです。

 

 

その晩、私とKはなんとも言い難い異様な空気感に酔っていました。私の頭は存外冷静で、いつもの余裕をなくして冷静さを欠いていくKのことをある種俯瞰してみていたような気がします。

私は自分の体に痣ができていく過程を美しいと思えます。死体のような肌色の体を叩き、引っ掻き、傷つけると、花が咲いたように赤くなります。Kは穂先の丈夫な乗馬鞭で、平手で、なんども私の肌を傷つけていました。

終いには張り倒すように頬への平手が、いっぱつ、にはつ、さんはつ、よんはつ、ごはつ。どれくらいの打撃を受けていたのか数える余裕はありませんでした。私は被虐の快感に打ち震えていました。私はこの人のためになんでもできる。なんでもできる。なんでも。Kの声は興奮に突き動かされるように裏返っていました。ただ繰り返すように「楽しいね」「楽しいでしょう」「楽しくないの?」、引きつって裏返った声で彼から熱狂を強要されていたのは覚えています。

"その瞬間"は唐突でした。耳は聞こえる、見えている、なのに体が、突然ピタリと動かなくなったのです。視線すら固定され、指先一つぴくりとすらうごかせなくなりました。頭だけは妙にはっきりと動いていました。どうしても唇が動きませんでした。息すら危うくつまりそうなところでした。

おかしいなにかがおかしい体に異常が起きている彼を止めなくてはそうじゃないと私は二度とこんな無理ができなくなる怖くて怖くて全てから逃げ出さなくてはいけなくなるそうなる前に意思を示さないとこれはダメだと度を超えていると本気で嫌だと怖いとやめてほしいとこれを求められるのであれば私は彼とは一緒にいられないそうなる前に止めなくてはとめなくてはとめなくては

 

「レッド、」

 

痛みに抵抗することも声を上げることもできずしばらく、それでも私の頬を叩き続け動きを止めない彼に向かって私は絞り出すように言いました。――その一言がKを熱狂から引き戻したのでしょうか。ふと我に返って次に目に入ったKの顔には驚きと恐怖に近いものが滲んでいました。頭の血管がプツリと切れて何をしていたのかわからない、といった様子でした。

ずいぶん古典的な方法ですが、サディストとマゾヒストが関係を持ち、その関係が暴力や精神攻撃に近しい形になっていくのであれば、我々は責任を持ってセーフワードというものを決めなくてはなりません(世の中には信頼関係に依存しセーフワードを定めないカップルもいるようですが)。

セーフワードは、とにかく「その言葉を口にしたら全部止める、何か異常が起きているサイン」です。どうしても暴力が伴うことなので、攻撃される側は「いやだ、こわい、いたい、やめて」と口にすることがあります。だからこそ、セーフワードはプレイ中に絶対に口にしないような言葉。私とKの間に定められた言葉は赤信号のレッド、でした。

それを口にしたのは初めてでした。言う必要があるほど追い込まれたこともなかった。正直に言うと、セーフワードなんて場をぶち壊しにしてしまうもの、私が言うわけがないとタカを括っていた節はあります。だから私は逡巡しました。体はまだ痛みに耐えられた、精神的にも問題はなかったのに、何かが私に不可抗力のストップをかけたのです。

体が動かない私を、Kはしばらくどうしていいのかわからないと行った様子で見つめていました。ただ、それがただ事ではないとわかるまでに時間はかかりませんでした。

「からだがうごかないの、うごかなくなったの、どうしてかわからないの」

「ごめんね、なんでもはできなかったよ。なんでもはできなかった」

「なんでもするっていったのに、ごめんね」

ようやく喋れるようになってからも、私の舌はしばらく痺れていて、回らない呂律で私はそう繰り返しました。体が動くようになってからは、Kがその掌を私にむけるたびに私の体は恐怖に震えて跳ね返りました。嫌がるように抵抗するそのバネのような動きが私にも制御できなかったのです。Kはぼろぼろと泣きながら繰り返していました。

「なんでもなんて出来なくていい」

「何かがおかしかったやりすぎた」

「大丈夫、何もしない、何もしないから」

私と同じくらい、もっと言えば私よりもさらにKは怯えていました。自分が取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと。そうではないと伝えるために彼の頬に手を伸ばして撫でながら、私はぼんやりと思いました。

 

ああ、私が悪魔と契約したんじゃない。私が彼を、悪魔と契約させたんだ。悪魔は私。私は彼に万能の力を与え、その代わりにすこしずつ少しずつ人間性を削り取っていく契約をした悪魔なのだと。

 

もしそうなのだとしたら、私は悪魔失格です。私はあと一歩、セーフワードを口にしなければ彼をもっと堕落させられたかもしれないのです。人を殴り苦しめることに快感を抱くようになったら、それでしか悦びを見出せなくなったら、それこそ彼は彼の人間性に見切りをつけなくてはなりません。そしていつか彼は、私以外の選択肢を見失う。まさに魂の陥落、思う壺です。でも結局、そうなる事を望まなかったのは私でした。

死んでもいい、壊れてもいい、だから彼を私のものに、ということができたのに。みすみすその機会を逃したというわけです。

 それは多分、私が幸せを掴む方に賭けたということなのでしょう。覚悟を持って幸せになること。まだ全ての時を止めるには惜しいということ。悪魔にしては甘ったれています。さて本当に悪質なのはどちらでしょう、魂を食おうとする悪魔か、悪魔を利用してやろうと舌なめずりをする人間か。でもなんだか、マゾヒストの悪魔と契約したサディストの人間、なんて。少しグリモワールな感じがして愉快な気もします。私らしい。私たちじみている。

その時が来て彼が満足したら、私は必ず彼の肋骨の間に指先を差し込み、かけらまで魂を食べてしまうと誓いましょう。その時まで必ず彼を見届けると。だからまだあともう少しだけ、幸せな時間を。時を止めるにはまだおしすぎる。

 

今度何かのついでに神様に会うことがあったら聞いてみようと思います。「悪魔も好きな人と添い遂げられるでしょうか?」。きっと神様は鼻で笑うでしょう。それでいいのです。アノミー。私たちは赤いボーダーと、緑に囲まれた光り輝く時間だけを信じて生きていくのです。