ヰンダルジェンス

はやく主人公になりたい。(日々を可能なかぎり文学的に書き残す、私なりの彼との全記録)

生癖 - Kの話

性癖と呼ぶにはあまりに生きるために必要な"何か"に近く、

生きていく上での癖としてはあまりに人に受け入れられないリビドーのお話。

この記事では私の恋人であり、世の中を面白く生きていくためのパートナーであり、何故か血のつながりを感じる存在であり、ご主人様でもあるKのお話です。あくまでも私の視点から見た彼の話なので、彼がどう思っているかはまた別物ですが。

 

▼こちらが前半。このブログを書いている私の"生癖"の話。

 

私から見てKは、とても不安定な人間です。ただものすごく特殊なのが、彼のその不安定さに気付いている人間が、世の中でほんのひとつまみすらいないというその事実。おそらく彼のその特有の不安定さと多面性に気付いているのは私と、どんなに多く見積もっても片手に収まるほどかもしれません。もしかしたら彼を育てたご両親すら、もっと言えば少し前の彼自身すら、気付いていなかったかもしれないのです。

 

Kは一般的に言うところのメンヘラでもなければ情緒不安定な男性でもありません。むしろ情緒の話をするのであれば彼はとても安定していて、大概的に機嫌がいいことが多く、おおらかでソーシャライズも得意なタイプです。彼を慕っている人や可愛がっている年上の人たちは多く存在しますし、この嫉妬深い私ですら、彼を慕う人たちを許せてしまう、納得できてしまいます。持ち前の賢さや立ち回りの巧さ、吸収の速さや軽妙な語り口。彼を嫌う人は多分彼に嫌悪感を持っているのではなく嫉妬しているのだろうと思います。ほとんどの人がKの表向きのこういった性質を見て、「良い人」「面白い」「素敵」と評しているのです。

 

ただその一方で、神経質かつ冷徹で残酷な"支配者的資質"を持ち合わせていることも否定しようがありません。自分のルール、自分の審美感覚にのみ従い、それを肯定し愛する者しか受け入れない聖域、そういうものをKは持っているのです。Kがその聖域に誰かを手招きして迎え入れることは、まずありません。観光客はお断り、永住させても良いという人にしかその扉を開かないのです。

平坦な言葉を使うのであれば、彼の裏側は抑圧された子供のようでもあります。幼少期、小さな虫を殺したり、草木をなぎ倒すことで万能感を得て何かを学びとっていく子供は世の中で決して少なくないようですが、その一時的な万能感は歳を経るごとに擦り減るのが通常です。もちろんKのその万能感も、歳を経るごとに擦り減っていったのでしょう――"表向きには"。そうして社会に適応していき、楽しくて明るい魅力的な男性に育っていったのが表向きのKであるとしたら、なんらかの理由で万能感を失わず、それを抱えたままに体と脳だけ大人になったのが裏側のKではないかと私は考察しています。

 

ここからは本当に、ただの推測ではありますが、もしかすると彼は、その万能感を小さい頃、(或いは彼も気づかないうちに)周りの大人に否定されてきたのかもしれない、と思います。「大人になりなさい、大人でありなさい」「子供みたいなことを言わない、しない」。

そういえば彼に言ったことがあります。「私は肉親からの絶対的な承認が欲しかった」。それに対して間髪入れずにKは「それは無理だ」と答えました。その時には判りませんでしたが、何よりも誰よりも近しい人間からの絶対的な承認を求めているのは彼だったのではないかと時々思うのです。

兎角、高邁たれという制圧を受けたまま、Kの万能感は小さい箱の中に押し込められました。誰にも言えず発散もできずでもどこかに置いてくることもできず、手元には歪にしか成長できなかった精神が残った。それを受け入れてくれる人を探したいと願いながらも、その願いは叶わないと否定し続けた結果、彼の万能感は今にも爆発しそうに膨れ上がり――それが結果的に誰の侵略も許さない聖域と、彼の一種化け物じみた支配者的資質を生み出したのかもしれません。

 

私たちはこれを時折笑い話として持ち出すのですが、Kは大学時代、友人や後輩から「周りを照らす太陽みたいな人」としばしば評されていたようです。『お日様みたいな男性が年下の女を"飼う"かしら』と、私は冗談めかして返してしまったような気がしますが、その実、Kを「太陽みたいだ」と評した人の的確さに舌を巻いていました。それほどまでに彼の"表側"はどこからどう見ても素晴らしい好青年です。

彼の場合難しいのが、好青年である表面と、冷酷な支配者である裏面、その両方が間違いなく彼の本質であるということなのです。大抵の人間の二面性(あるいは多面性)は育過程で人工的に作られたものである場合が多いのですが、彼の場合はどちらも本物。この二つを両方正しいものとして抱えているのが、彼の「生きる癖」なのだろうなあと、側から眺める私はぼんやり感じています。

 

多面性と申しますと、それについてはK自身が語っていたことがありました。自分が人に求める事には少なくとも四つの面があると。

「"この人の為に頑張ろう"と思うこと、"この人といると楽だ"と思うこと、その二つの両立はただでさえとても難しいけれど、自分の場合はその二つがさらに二つに細分化されている」「表面、ごく普通に社会で生きる自分として"この人の為に頑張ろう"と思うこと。そして、"この人といると楽で無理をしなくていい"と思えること。もう一つは裏面、自分の特殊な趣味嗜好を追究すること後押しする存在と、癖を隠さず遠慮もせずいられる安心できる存在」

それは即ち、Kがこうありたいと思う四つの多面性なのだと直感的に感じました。もっと頑張りたい。安心と安定が欲しい。もっと楽しみたい。もっと自由にしたい。彼がもし裏面をほぼ自覚せずに今まで生きてきたのだとすると、同じ人間から受け入れてもらえる彼の多面性はせいぜい半分。ああそれはどれほどの孤独だったでしょう。

 

そもそもKがその"裏の顔"をどれほど克明に、また何時頃から自覚していたのかは定かではありません。しかし、Kが私と関係を持つ前恋人だった(剰え結婚を考えたほどの)女性は、ごく普通の嗜好のノーマルな方だったそうです。

そう、特筆すべきは、彼は"裏側"を自覚せずに生きていくことができたかもしれない、ということです。友人に囲まれ、長く連れ添った妻、二人の可愛い子供と、少し田舎のどこかの街でのんびり暮らす。無理はないけれど刺激もなく、でもそれを幸せと思える日々を手に入れることもできた、

けれど彼はそれを捨てたのです。

彼はお日様のように生きていく"クセ"と、欲望のまま暮らす"ヘキ"、その両方を諦めない選択をしました。その行き着いた先がもし私であるとしたら、私は飼い犬冥利につきるというものです。

 

男女恋愛を礼賛するつもりも男尊女卑の片棒を担ぐ気もありませんが、私は男の人の陰で生きる女性をとても美しいと思います。明るい世界での喜びと、もっとアンダーグラウンドで、フェティッシュで、ある種誰にも理解されない暗い世界での喜び。彼がその二つとも諦めないというのなら、私は恋人として、パートナーとして、あるいは肉親あるいは母のように、そして彼が自由にできる愛玩動物として。彼の世界の喜びを影のように寄り添い立ち回り実現させていきたいのです。

 

私は恋愛と主従関係を両立させたい性質だといつだか書きました。

基本的には、サディストがサディストたり続けること、支配者が支配者であり続けること、常に威厳を保って暮らし続けることは不可能なのです。それであるのと同じように、マゾヒストがマゾヒストたり続けること、服従者が服従者であり続けること、常に従い自らの意思をもって人生を棄て続けることもとても難しい。

主従関係において自分のパートナーの駄目な部分を受け入れることは案外困難なのです。マゾヒストがサディストに対して冷めてしまったら関係は破綻します。その逆も然り。だからこそ私は、私の主従関係に恋愛と共闘を持ち込みます。駄目なところや弱い部分を愛情で補う選択をするのです。信頼関係を構築したい、美に浸りたいと面倒なことを言う私にはそれが合っているです。

だからこそ私が自分の意思で隣にいたいと思える人を探すのはとても難しかった。そこに現れたKは、あっという間に私の生きる癖も性的な癖も飲み込んでいきました。そして笑って私を肯定したのです。

 

Kの幸せのために、私は幸せになると覚悟しました。

ここまででようやく、私がブログを始めてKとの日々や関係を記録に残していこうと思った理由が完結します。「愛してる」なんて、私は相変わらず彼には言えませんけれど、私が彼を見るまなざしを通して、彼に誰かに私自身にこの思いがゆっくりと浸されしみ込んでいけばいいと思って本日は筆を置きます。