ヰンダルジェンス

はやく主人公になりたい。(日々を可能なかぎり文学的に書き残す、私なりの彼との全記録)

生癖

タイトルを読んで「せいへき」と読むか、「いきぐせ」と読むかで心の純粋さがわかる気がします。残念ながらどちらが正解というお話ではなく、せいへき、かつ、いきぐせ、両方に引っかかります。"癖"というのは面白い言葉で、ヘキと読めばなんとなく性的なものを連想させますし、クセと読めば少し可愛らしい感じがしてきます。

 

私の「せいへき」と「いきぐせ」の話をします。 

 

私はKを三人称として示す時、いろいろな呼び方をします。「彼氏」「恋人」、そんな当たり前の呼び方はもちろんですが、「ご主人」「飼い主」、と呼ぶことも儘有ります。その呼び名の通り、私とKは少し特殊な結びつき方をしています。

私たちの関係はとても流動的です。場面場面によって私たちの役割は流れるように入れ替わり、それをとても心地よく捉えて二人で暮らしています。というより、この流動的な入れ替わりの感覚と、気持ち良いと感じられる切り替えのタイミングを初めて共有できた他人であるからこそ、私たちの関係は成立しているのです。

Kは私にとって自慢の恋人であり、人生を共闘し日々の暮らしを良くするためのパートナーであり、仕事の相談をする良き先輩であり、もっと言うならば血を分かち合ったどうしようもなく離れられない肉親のような存在です。

そしてそれと同時に、Kは私を飼い、躾け、支配し愛でる「主人」としての側面も持ち合わせています。

手を繋いで出かける瞬間も、冗談を言って頭をはたきながら笑い合う瞬間も、彼が私の首に手を掛け前髪を掴む瞬間も確かに本物で、どこかに歪みや無理があるわけではないのです。"明るく賢く人当たりのいい好青年としてのKと、家事も仕事も遊ぶのも大好きな、大人に憧れるまだ子供っぽい私"、"高貴で冷徹な支配者としてのKと、不安定で怯えた情けない飼い犬としての私"。どの構図も確かに本物の私たちです。

その関係の多面性は誰しもが受け入れられるものではないのは、私も彼も理解しています。

 

いきぐせ、と、せいへき。その言葉を思い出してください。私とKは、かなり奇跡に近いレベルでその二つが合致しています。完璧に価値観の合う人間などいないからこそ、おそらくこれ以上はいないとお互い確信を持ち、互いを尊重する不思議な力関係が築かれているのです。(少なくとも私はそう思っています。)

 

 

自分で言うのもなんですが、私はかなり病的なマゾヒストです。 このマゾヒスティックな傾向は長い時間をかけて形成された「生きる上の癖」であり、「性癖」です。……が、そもそも世の中に、私のリビドーを受け入れてくれる相手がほとんどいないという問題を抱えておりました。

基本的に私は男性が苦手です。仲良くすることはできるのですが、好意を持たれることや性的な対象にされていることがわかると吐き気を伴う強烈なアナフィラキシーが出現し最悪の場合死に至ります(嘘八百)。どちらかというと精神的には女性に惹かれやすいのは傾向としてわかっていたのですが、残念ながら性衝動はあまり掻き立てられません。私はあまり性欲のない人間なのかなあと自己完結していた時期もあるのですが、困ったことに私はなかなか酷いマゾでした。

 

先だっての記事でも述べましたが、私にとってキス以上の粘膜接触は基本的に誰かを依存させるための「道具」。人間を快感に依存させることは簡単なので、自分の体は便利に使うものでしかありませんでした。

結果、自分に極めて被虐的な願望があることを自覚していながらも、それを安心して見せ預けられる相手には出会ったことがありませんでした。

例えば意識が朦朧とするまで首を絞められること。体を飾るように縄を施されること。鎖で繋いだ首輪を遠慮なく引かれること。執拗に精神を支配し感覚を酔わせること、それによって触れ合った指先や舌先が電流のような快感を生み出すこと。飴と鞭、痛み、苦しさ、それを施し受け入れる愛情――私はそういう欲望を"自分のために"解放したことは、Kと出会うまで一度もありませんでした。

あくまでも相手に合わせて「ノーマルで敏感」だったり「痛いのが好きな淫乱」だったり「嬲って詰めるのが好きなヤンデレ」になったフリをしてきました。その結果あまりセックスそのものの楽しさがわからなかったので、好みがあまりにも合致する相手と出会ったのは私の価値観を大きく変えました。

(お恥ずかしい話なので文字を小さくしますが、Kと出会うまで私は他人との接触で"息もできないほど気持ちいい"と思ったことはありませんでした。手を繋ぐのも、キスをするのも、抱き合うのも、それ以上も。それが今は、ご覧の通りです。Kには何か毒性があるのでしょうか。)

 

痛いのも苦しいのも見下されるのも嗤われるのも大好きですが、相手が誰でもいいというわけにもいかず、私はセックスの相手に信頼関係と愛情を求めます。「サディストがマゾヒストの肉体を支配し、マゾヒストはサディストの精神を支配する」というのは世の常ですが、私は私の体を誰かに思う存分使って欲しいのです。便利に、快適に、大切に、乱暴に。そのために私のことを長い時間をかけてカスタマイズして欲しいと願っています。いつか、その人専用に作り変えられた私の体を手放すのが惜しいと思ってもらえるくらいに。ああカタルシス。極端な話をすれば、「この子のことを殺したいけれど、殺して使えなくなってしまったらこれ以上は見つからない」という危機感で踏みとどまってもらいたいのです。その葛藤が私の決める美と狂気の正中線。

そのぎりぎりを追い求めていくには信頼関係と愛情が不可欠なのです。だから私にとってSMと恋愛はほぼイコールで両立します。結果、SMバーのような場所で不特定多数と関係するのは、あまり興味がないのが本音です。

つまり何が言いたいかというと、それだけ相手を見つけるのが難しい性癖をしているというお話です。

 

さらに言えば私の被虐願望はちょっとややこしい作りをしており、「美しくなければ」浸れないのです。例えるならば、カメラマンに撮られて芸術作品となり得るセックスがしたいと私は考えがちです。アダルト作品のような派手さや誇張されたいやらしさは、正直私には必要のないものなのです。

 言葉遣い、振る舞い、表情、身に付けるもの、それら全てに私は私なりの美しさの基準をかなり明確に持っています。ただそれを言語化するのはかなり困難で、"しっくりくる"相手を見つけるのがかなり難しい。「限定的な対象にしか向かない性欲」「被虐的な願望」「言語化不能な耽美趣味」。まさに三重苦! 性癖に問題のありすぎる私は自分のパートナーを見つけることはほぼ諦めていました。

奇跡的にKという相手を見つけた時、私は朦朧とする意識の中ではっきりこう思ったのを覚えています。「絶対にこの男を手放さない」。それは狂気に近いレベルでの誓いでした。「私は貴方を私の飼い主にしてあげる、ご主人様にしてあげる」。そう思いながらぼろぼろになった体を必死に動かし彼の頬を片方の手で包み込むと、私はなんとも言えず不思議と満たされるのです。

 

 

随分と熱が入ってしまいましたが、思えばなかなか、生き辛い生き辛いと思いながら暮らしてきました。ただもうこの歳になってしまうと、私の生き辛さは勝手に解消されるものでも誰かが救ってくれるものでもなくなっているのです。

私がかつてそうであったように、きっとKも同じようないきぐせとせいへきを抱えて、説明できない違和感を抱えながら幾度となく女の子の腕を掴みベッドに引きずり込んできたのだと思います。 次は私から見たKの"生癖"の話をします。上手にかけることを祈っていてください。