ヰンダルジェンス

はやく主人公になりたい。(日々を可能なかぎり文学的に書き残す、私なりの彼との全記録)

世界が終わった時の話

ちょっと長くなります。私が生きていた一つの世界が終わって、新しい世界がはじまったお話をさせてください。

 

2017年、今振り返っても全くロクな年ではありませんでした。とあるご高名な占い師の作った表を見ると、去年の私は小殺界。何だかよくわかりませんが、字面からしても運気が悪そうです。この年、私は三年間一緒にいた男性に捨てられました。

 

私の体調が悪くなり始めたのは2017年の頭です。もともと精神的にそんなに強くないくせに自分の心に対して酷く鈍感で、ストレスを逃すのが苦手なたちでした。長い冬休みを終えて学校に戻ったのが4月。そこからみるみるうちに体調は悪くなり、こころもからだもボロボロに。体重も減って、食べられなくなって、ものが考えられなくなって、私は家に連れ戻されました。

当時私には遠距離恋愛を三年近く続けていた男性がいました。Sという名の同い年の人で、それはまあひどい出会い方をしてひどい恋に落ち酷く扱われそれでも私はSを愛していると、少なくとも愛するとはこういうことなのだとそう思いこんでいました。

Sと付き合い始めたのは、生活環境が大きく変わるちょうどその過渡期で、ストレスを逃すのが苦手な私はあっというまに「決断すること」に疲れ切りました。そうして私は全ての決定と自分の意思をSに委ねる生活を送りました。

――私が遠くの街へ引っ越すその前の晩、私は親の目を盗んでSの一人暮らしをしていた小さな家に泊まりに行きました。そこに用意されていたのは世にも美しい契約書でした。詳細は覚えていません。ただそこには、このようなことが書いてあったと思います。

・甲は乙の決定権の全てを有する

・乙は甲の決定に従う義務を有する

・甲と乙は互いに互いの行動を制限する権利を有する

そして、「生存権を放棄して生殺与奪を相手に委ねること」「本契約は死をもって破棄されること」。私は乙に名前を記し、左手の小指を切りつけて血判を押しました。懐かしい話です。喜びも悲しみもなく、あるのはただ空っぽの器を自分で操作しなくていいというゆがんだ安心感だけ。その時私は責任の一切を放棄して努力を諦めることを選択したのです。

当然"甲"が私の生活に全ての責任を負えるわけもなく。彼の飽きや生活の疲れは、徐々に私への関心を薄れさせて行きました。まさに依存。私は彼を依存させて彼をコントロールしていると思っていたけれど、思想の伴わない肉体だけのセックス、形式的な主従とも恋人ともつかない関係と、強烈に私がよりかかった歪なパワーバランス。破綻しないはずもないのです。

 

破綻していない、していない、していないと暗示をかけ続けて三年がたった冬のこと。「君といると、疲れる」――Sは私にそう言って別れを切り出しました。きっかけは些細なことでした。

「こんどあなたのお家に行こうと思うの。その時にね、ワインを買っていきたいな。二人で飲みましょうよ」、携帯のメッセージを送ってしばらく、いつまでたっても"開封済み"にならないメッセージをちらちらと見ながら私はワインを選んでいました。Sからの連絡がすぐわかるようにカスタムしたバイブレーションがポケットの中で鳴り響き、私は餌を与えられた犬のように携帯を取り上げメッセージを開きました。そこには一言、「好きにしたらいいよ」と書いてありました。

 

何かが壊れる音がしました。これを言ったら終わる。そう思っていたのに私は止まらず言いました。

「どうしてそんな言い方するの? 私はあなたと時間を過ごそうと思って。あなたが忙しくてワインなんて飲んで遊んでいる暇はないって言うならそれでいいと思って。まだあなたがやった個展の打ち上げもしていないし」

帰ってきたのは「僕たち別れようか」。電話をかけて騒ぐ私は無様で惨めでした。

「ねえ、私はあなたにとって都合のいい女の子にもなれなんですか」

「会いたい時に会ってセックスしたい時にセックスして、それだけの女の子でもいいの、あなたの人生に置いてほしいんです」

「あなたがいなかったらどうやって生きていったらいいのかわからない」

「私が何もできないようにしたのも色々な人とのつながりを絶たせたのも孤立させたのもあなたなのに。その責任を取ってくれないの。そんなのって無責任よ」

「私たちは」 「あんな契約まで」 「したのに」

離れた人の心を取り戻すことはできません。引き際は美しく、と頭に残った理性が警鐘を鳴らした気がしました。もう美しくするなんて無理なのに、私は聞き分けのいいふりをして電話を切りました。

お酒を浴びるように飲み、家にある大量の精神安定剤をかじり、「どうせ死ぬなら」とおもって食べたかったものを全部食べて、全部吐いて、ぼろぼろになるのをしばらく続けました。

Sに渡してしまっていた私が本来持っていたはずの"権利"や"生存権"たちが一気に私に返ってきて、その重さに私はつぶれそうでした。それでも私はSに依存していて、彼がいなくては生きていけないと。彼以上はいないと。本気で思い込み絶望しました。それが2017年の暮れの話です。

 

2018年になり、年が明け、絶望的な気持ちで年末年始を過ごした少し後、私とSは貸し借りしていたものを返すため、新宿のある喫茶店で落ち合いました。

その喫茶店は思い出深い場所でした。遠い場所に勉強に行った私は、休みを見つけては夜行バスで東京に戻ってきていました。そして、夜行バスでまた遠い場所へ帰っていく。帰る日の夜、私は必ず「離れたくない」「こんなに辛いなら来なきゃよかった」と泣きました。そんなとき彼は私をその喫茶店に連れていき、机の下でそっと手を繋いで私をあやしました。美しい思い出の一つです。平気そうな顔をした彼は、ちっとも平気なんかではなかったのです。私を乗せたバスを追いかけて走ってくるのを、私はくらい夜行バスの狭い椅子から窓に鼻をこすりつけるようにして見ていました。でも、今年の初めにあった時の私はすっかり青ざめて、そんな美しい記憶の登場人物ではなくなっていました。

「僕たちはもう会わないほうがいい」、復縁したいと必死で訴える私にSは言いました。

「どうして?」

「よくできた物語の続編は蛇足だ。君は春琴抄の続編を読みたいかい。ターミネーター2は金をかけただけの駄作だった。智恵子抄は、智恵子が統合失調症になって死んだから美しいんだ」

「あなたはきっと私がいない寂しさに耐えられない」

「耐えられるさ」

「嘘。耐えられるはずがないです、だって」

「君は知らないんだ。君は風呂場で帰って来ない母親を夜中まで待ち続けたことはあるかい。なんの音も立たない家でいつ帰ってくるかもわからない人をずっと待ったことは。いつ腹をたてるかわからない大男に怯えて守ってくれる人を待ったことは」

「だって」

「だってじゃない。僕は人を愛するのに向かない。ただ一つ言えることは、君で駄目ならもう駄目だ。僕は孤独に生きていく」

いうことのできなかった私の「だって」、には続きがありました。Sは私と別れる少し前から、ちょっとしたブログを書き始めました。彼も創作をするひとで、今まで書いた文章をそのブログに彼はまとめていました。失恋してしばらく、私は張り付くように彼のブログの更新を待っていました。

忘れもしない1月6日。彼はブログを更新しました。そこには、昔彼が私を思って書いたと見せてくれた小説がそのまま、載っていました。その小説の前書きとして、彼は私のことを書いていました。もう断片的にしか覚えていませんが、「白肌でコルセットの似合うちぐはぐなあの子」を思い出すこと。自らの欠陥を思い知ること。仲良くなれたと思った孤独に今更苦しめられていること。そして、オイルライターの火だけを信じていきているということ。――私はそのブログを読んでおいおいと泣きました。ああ、寂しいんだ。寂しいんだ彼は。その孤独は私がきっと埋められる。ブログの冒頭は、数時間後に削除されました。何を思ったのかはもうわかりませんけれど、確かに彼は酒を飲んで孤独を吐き出していたのです。

そうおもって私は彼に会いに行きました。それが、私に取って彼と私を結びつける最後の道しるべだとすら感じていました。

白状します、私はその日、メゾンドフルールの可愛らしい鞄の中に包丁とハンマーを隠し持っていました。復縁できないなら彼を殺してやろうと本気で思ってきたのです。でも、殺せませんでした。殺せない自分に絶望しました。ああ、「愛してる」なんてその程度かと。私は何度も「Sを愛しているから彼のためならなんでもできる、人も殺せる」と思ってきました。でも、そんなものだったのかと。そう思うと情けなくて涙が出ました。それと同時に、彼以上に出会えるのか、私が寂しい時いったい誰が私を抱きしめてくれるのかわからなくなって、暗い気持ちになりました。彼を殺さなければいったい私に何が残るのか。ぼろぼろと泣く私の頬をSの指がぬぐいました。私はSを睨みつけました。困ったような顔をするSは、前ほど私にとって魅力的ではなかったのだけはよく覚えています。

でもわかったのです。私はその時。もう、私は彼の世界のヒロインにはなれないのだと。彼といても、私は私の世界の主人公には、なれないのだと。

 

私たちは喫茶店を出ました。階段を登る時、彼は足が弱い私のために一度も手を差し出すことを欠かしたことがありませんでした。でもその日は彼は私に手を差し出さず、片方の手でトランクを持ち、片方の手は丈の長いコートの中に隠していました。のたのたと階段を登る私を何度か振り返りました。その度に私は泣きそうになりました。

新宿の交差点で、私は彼の袖を引きました。彼は振り返って、私は彼の頬に手を添え、もう片方の手で襟を掴んで引き寄せて、一瞬だけキスをして、すぐに離れて。私は精一杯の声で言いました。

「さよなら」。Sは答えました。「さよなら」。

 

こうして私の世界はおわりました。自分の手で引導を渡すこともできず、曖昧な形でただ、"おわった"。それだけでした。――Sについてはまたきっと語る機会があるでしょう。でも私が話したいのは彼の話ではありません。世界の終わりに彼の記憶も彼への思いも彼との契約も、私はすべて置いてきました。

 

次は世界が始まるお話です。