ヰンダルジェンス

はやく主人公になりたい。(日々を可能なかぎり文学的に書き残す、私なりの彼との全記録)

色覚異常の世界より

基本的に私の見ている世界は情報という情報で溢れていて、それらの情報が異常な結びつきを起こしながら脳の中で常に漂っています。とりわけ色に関しては私は強烈に敏感です。発達障害の人の「色覚過敏」とはまた異なって、私の頭の中では情報と色とが多くの場合結びついています。その情報と色の結びつきにはほとんど接点がないので、記憶をたどる足がかりにはならないのが難点です。

 

今日は私とKの「色」の話をしたいと思います。

 

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今生きている私は、かつて「私」の一部だった四つの人格が統合された果ての姿です。意味不明かもしれませんが、私には確かにそういう自覚がありますし、私はもっともっと若かった頃、その四つの人格を場面に分けて使い分け、記憶すら分断して暮らしていました。

ひとりめの人格は、節制と勤勉。おそらく今私が社会的に暮らしていく上で見せている側面にもっとも近かったとおもいます。極めて男性的で、決断力に富み、合理主義、リーダーシップとカリスマ性を常に褒められていました。

ふたりめは芸術と愛情。彼女は私よりも圧倒的に精神年齢が高く、おっとりと落ち着いていて、それでも私たちの誰より歌がうまかった。楽譜の読み方は私と違って移動ド式、彼女が口ずさむ音とドレミは私にとってはずれて聞こえて、いつも気持ちが悪かったのを覚えています。

さんにんめは支配と暴力。私はずっと彼が怖かった。私の悪い記憶全てを閉じ込めた人格で、時折どうしようもなく攻撃的になって暴れたり、誰かに恐ろしく楯突いたりすることがあった一方、以上に頭が良く人を精神的に追い詰めようとする。必死で彼と距離を置こうとしていたような気がします。

 

そうしてよにんめが、私。気弱で、何もできず、臆病・才能もなければ自信もなく、いつも何かに怯えていて、人前に出ると口ごもってしまうようなのが本来の私でした。長い時間をかけ、分断されていたこの四人が統合された結果が私であるのは、お医者様も織り込み済みです。その証拠に私の脳は人の四倍血流が発達しています(実際、なんの恩恵も得られていませんが)。

私がかつて「私」だったころ、世界に色が満ちている感覚はもっと色濃く美しかった。その色覚を頼りに私は暮らしていました。知性で人で判断できるほど頭が良くなかったので、その声や、本人から香る匂いのようなもので私は人を判断していました。私の世界は、いい香りと美しい色で溢れていました。ピアノを聞けば音の粒が空気中に舞い上がるのが見えました。人のしゃべる声や絵画、集中して見つめるものものに香り立つバニラやアンバーやムスクを感じました。とりわけ人の声は美しかった。声のトーンによって少しだけ色には斑ができ、グラデーションのように私の頭に浮かんでいく。その斑のでき方にはそれぞれ個性があり、まるで怒っているみたいだったり、笑っているみたいだったり、人を飲み込み沈んでいくみたいだったり。――今はもうこの感覚は希薄になりました。かろうじて、集中して聞いたり興味を持った人の声の色を遠くに感じられる程度です。

私のこの四つの人格を解離性同一性障害というのか、解離性遁走を伴うイマジナリーフレンドの自立暴走というのか、一定レベルを通り過ぎた虚言癖が記憶にまで作用しているというのか、その時期真っただ中に治療を受けていなかった私には結局わかりませんが、いずれにせよ、今の私はそれら四つの要素を兼ね備えた人間であることは間違いありません。

 

先日Kが公開していた記事で、彼は「その時彼女は決まって感情を遮断していて、他人より発達した脳みそだけで話をします。能面のような顔になるのです。」と私を評価しています。

なんと申しますか、これは一切合切正しいのです。脳だけを動かしている時喋ったことの記憶が私にはあまりありません。例えるならば、私の中にある、かつてあったはずの他三つの人格のいずれかが強く作用して、私は奥へと引っ込んで様子を見ているような気持ち。

――つまるところ、ご主人の”犬”たる私はあくまでも純然たる「私」ということなのですが、そんなことは置いておいて。

 

こほん、閑話休題

 

私の色覚に対する異常(あえて"共感覚"とは申し上げないことにいたします)はあくまでも限定的な能力となっていますが、やはり深い仲になった人は色とともに深い印象を私に残します。

例えば私が広義で愛してきた人たちは、こんな感じ。

Thirsty Blue (渇望の青)

Greedy Green (貪欲の緑)

Intelligent White (聡明な白)

Strongwill Gray (意志の強い灰色)

Angry Pink (怒りっぽい桃色)

彼らの声を聞くと、私はその声と色の斑付きや波打ちからこんな印象を受けます。面白いことに、この形容詞たちはその人たちの性格とは全く関係なく、あくまでも色の印象から頭に浮かぶものです。だから本人にそれを伝えると、時々納得いかないような顔をされます。

もっとも美しいな、と思ったのはThirsty Blue、渇望の青。ざらついたテクスチャーと触れると熱いような色。熱し過ぎた炭が白色になるように、その人の青は時折白く見えました。

 

殊に、何かに感覚を集中させている時に耳元でその人の声が聞こえると、目の前がぱっとその人の色に染まるような感覚を覚えます。例えば私がご主人の腕に抱かれながら気を遣る時、耳元で彼の声がすると私の頭にはご主人の色が鮮明に広がります。色覚異常の世界とはなかなか面白そうだと思っていただければ幸いです。

 

人に興味を持たず暮らしてきていた最中でしたから、私はご主人に対して久々に色を感じました。彼の色を明確に感じ取ったのは、おそらく彼と初めてセックスした日だと思います。昼下がり、台所で煙草を吸っていた彼の前に私はたち、ふわふわとした彼の髪に片手を差し込みました。私たちはその時はまだ、お互いを持て余していて探り合っていたのです。相手がベッドでどんな振る舞いをするのか想像もつかなかった。恐る恐る触れる私を引き寄せて彼が笑った時、私は強い色を感じたのです。

名前をつけるならそう、インダルジェント・レッド、耽溺の赤。

ブログの名前はもちろんこれからいただいたものです。様々な人に形容詞と色をくっつけたタグを貼ってきましたが、溺れるほどの深い色を感じたのは彼が初めてでした。

残念ながら彼の赤は深紅やルビーのような鮮やかな赤とは程遠く、和名でいうなら銀朱や今様色のようなくすんだ紅色に、まだらに退紅(あらぞめ)が見えます。それでも表現しきれない、羽衣を何重にも何重にも重ねた様な深い深い色。一度指先を伸ばし腕を浸せば引き摺り込まれてしまう様な色。

赤というのは常々信号じみた、怒りっぽい色なのですが、彼の赤色は特徴的なほど穏やかです。それが荒々しく波打つ時、私はいつも恍惚とします。

 

 

……そういえば、私は私の声の色がわかりません。完全に無色透明で何も感じません。ビデオや録音で聴いてもそうです。だから、私とご主人のささやきあう声がどの様に交じり合うのかわからないのです。それは少し残念な気がします。私の透明に、彼の赤が浸されると良いなあ、と。そんなことを思うばかりです。

 

K knows,

私のぐずぐずとした文章も読み飽きられた頃でしょう。やれ梶井、やれ太宰、やれ夢野、そんな薄気味悪い文学ばかりを読んできた私の文章はおそらく読みにくく黴が生えていますから、今回は少し趣向を変えて、私のご主人に寄稿していただくことにしました。

私の視点ばかりでは偏ってしまいます、私たちの私たちたる所以を、ご主人の視点からご覧くださいませ。

 

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皆様、こんにちは。Kと申します。
アリスから「ご主人の寄稿が欲しい」と言われたので、書いてみます。
取り留めのない駄文になること、予めお許し下さい。

私は彼女のように「ファウストが云々」とか「盲蜥蜴と小夜啼鳥の寓話」とか、そのような高尚な話はできません。
いつも彼女の知識の幅と深さには舌を巻きます。
ですから、そうですね。私は「私」と「アリス」の話しかできません。
私がどういう人間かは今まで散々語ってくれましたから。私から見たアリスを書いてみようかと思います。

どこから書こうか・・・
とりあえず、私が彼女と出会った時に何を考えていたかを、少し書いてみましょうか。

 

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彼女と初めて会った日、もとい、会った瞬間。私の感覚は間違っていなかったと確信しました。
直接顔をあわせる少し前から、私たちは文章でのやり取りを数週間していました。
そのやり取りからは、彼女の聡明さ、世間一般でいう女性らしさ等々と一緒に、なんとも表現し難い蠕くものを感じていたのです。
それがなんなのか、正直わかりませんでしたが。
しかしカフェに(遅刻して)到着した彼女を見た瞬間、その蠕くものを肌で感じることができた瞬間、私は思わず左の口角がクイッと上がってしまったのを覚えています。(おそらく彼女は気づいていないでしょう)


黒い渦のようなものが見えました。彼女の背中にへばりつくように。
それは彼女を今にも飲み込まんと口を開けて、涎を垂らして待っている。
そしておそらく、その渦の中に彼女は入ったことがある。私の知らない世界を見たことがある。その世界の残り香が、彼女からも感じられましたから。
彼女は「できる限り普通の人に見えるように」と言っていましたが、あれだけ目から、口から、耳の穴から、毛穴から、滲み出ていたら気づかないわけがありません。
(長年のひどい鼻炎で嗅覚がほとんど遮断され、カレーの匂いすらあまり感じることができない私にもわかったのですから、それは強烈だったのだと思いますよ)

あの渦の中の世界には一体何があるのだろうか。彼女は何を見てきたのだろうか。猛烈に刺激的で、常人離れした体験をしてきたに違いない。

・・・面白い。私もあの渦の中へ。行ってみたい。

反して、彼女はそれは凛々しく、必要以上に毅然とした態度で話をしていました。会話の内容はほぼ覚えていませんけどね。
こんなことを言ったら後で彼女に怒られるかもしれませんが、私は笑いを堪えるのに必死でした。
彼女は今頑張っている。「私はそんなに簡単な女じゃないのよ」「あなたに私が理解できるかしら」と必死に自分を取り繕っている。
そんな姿が少し滑稽に見えたのは確かです。
何を言っているんだ。君はそんな人間じゃないだろう。もっと暗くてジメジメしたところにいた人間だろう?と。

でも同時に、もしかしたらあの世界にはもう行きたくないのか?とも考えました。
いや違う。違うな。根拠はない、でも違う。私は確信していました。


少し私の話をすると、自分は比較的勘の良い人間だと思っています。
初対面の人間と相対した時には、大体話をする前から気が合う、合わないの判断ができ、おおよそそれは間違っていない。
何か物事を進行するとき、根拠はないが、うまくいく選択をすることができる。そうやって今まである程度うまく生きてきたからこそ、今回の彼女との出会いに関してもその感覚に頼ることにしたのです。


そしてその選択は成功しました。
私が突然見せたデパートメントHの写真。緊縛の映像。それらを見た瞬間、彼女の目はキラキラと、淀んだ光を魅せたのです。
彼女が自分を取り繕うために作った、それはそれは分厚く強固な仮面が、少し外れた瞬間でした。
・・・あぁ、やっぱりこの子は面白い。

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これが彼女との出会いの日に、私が感じていたことです。また「ご主人は本当に不遜だ」と言われそうですね。


今、私と彼女がいる世界。主人である私とアリスがいる世界。
いわゆる“普通の世界“と、暗い世界の両方を行き来しています。

確かに彼女は最初に感じた通り、暗くてジメジメした世界の住人でした。
でもそれは他の世界を知らなかったから。
私も同じです。今までは“普通の世界“の住人でした。
2人とも、違う世界の魅力に想いを馳せながら、片方の世界で生きていたのです。

いや、殊に彼女に関しては「生きていた」とは言えないのかもしれません。彼女は今までいた世界では、自分を消滅させていたと言います。
自分で何かを選択すること、決断することを放棄させられていた。抜け殻。容れ物。

だから今彼女は、「生きる」という選択と決断を頑張ろうともがいてます。
その頑張りに対しては、私は笑いを堪えるなどということはしません。
自分を取り繕うのではなく、自分を取り戻そうとしている。
そんな彼女の姿は、とても美しいのですから。


時折、取り繕うという癖、生癖(いきぐせ)が今でも見え隠れします。
その時彼女は決まって感情を遮断していて、他人より発達した脳みそだけで話をします。能面のような顔になるのです。とてもわかりやすい。
でも自分を全く取り繕うことなく生きている人間などいませんから、きっと彼女もそのうち丁度良い塩梅を見つけるでしょう。
私は楽観的なのです。

 


ほら、やっぱり取り留めのない文章になってしまった。
私は文章を読むのは嫌いじゃないですが、書くのは得意ではないんですよ。
こんなところで許してくださいな。

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はい。許してあげましょう。以上、ご主人からの寄稿でした。ぜひ定期的に書いていただくことにしましょう。

私は恋愛のドキドキなるものがよくわかりません。いわゆる良く物語に美化されて描かれる、「出会い→関わりが生まれる→好きなものや嫌いなものの一致などを経て相手を知る→やがて興味を持つ→好きかもしれないと自分の情動を疑う→相手も自分のことを好きなんじゃないかと胸を高鳴らせる→その緊張と楽しさが最高潮に達した時に告白→晴れて結ばれる」というプロセスを踏んだことがないどころか、そういうようなプロセスを踏むことになんの興味もなく、またおそらくそれに割くような情もないのでしょう。極端に言えば、「あなたみたいに感性が素敵な人にとても惹かれます」と言われるよりも、素直に「抱きたい」と思われる方が信用できるのです。人間も所詮動物。動物的"直感"には抗えないのです。たかだか生殖を目標とした都合のいい感情の動きをロマンティックに包もうとする人は確かに優しく気持ちいいのでしょう。でも私は、それだったら、手に入れたいと動物的に思われた方が興奮いたします。その動物的な衝動を人型に押し込めて、まるで太陽のように笑ってみせる。ああなんて素晴らしいんでしょう。

だからご主人の言う、「直感」を、とてもとても合理的で信用に足ると思えるのです。ご主人の口説き文句を思い出すたび、私は仙骨のあたりがひくひくと震え体や瞳が濡れてくるのを感じます。「写真を一目見た時に、この子の首を締めたいと思った」。一般的に見たら明らかに気の狂った口説き文句です。でもご主人はその聡明さで私の匂いを嗅ぎ分け、私に近づいてきました。そしてその獣の顔を気取らせないよう様子を伺い、私の体に毒を染み込ませたのちに鮮やかに狂気を見せつけた。

これが戀だと言うのならあまりにも凶悪な感情です。しかしどうしようもない、興奮。

 

Kがその直感を信じ続ける限り、私もKの直感を信じ続けようと思います。ではまた今度。

私たちの赤色

後ろ手に組んだ腕をKが整えて、そっと組み直させると、体がふわっと浮き上がるような気がしました。ああ、これから縛られるんだ。そう思ったら、安心したような、敬虔なような不思議な気持ちになって、私はいつも泣きそうになってしまうのです。

 

Kの最近のご興味は専ら縄遊び。麻縄を何本か揃え、せっせと丁寧な縛り方を練習しています。Kと私は出会ったその日、大きな駅の裏のだらしない喫煙所で、「縄を習いに行きたい」というような話をしていたのです。それがたったの数ヶ月前。Kはすっかり縛りの手順を覚え始め、いまではそれの応用にすっかり面白さを見出してしまっているようです。

 

緊縛の文化は前々から存じ上げておりましたが、正直言って私はあまり興味がありませんでした。日本における緊縛というと、なんだか、団鬼六のアートワークが頭に浮かんでしまします。着崩れた紫の着物、和室の梁からつるされた逆さ吊りの女性、苦しそうな表情、強調されて潰された胸、どうしても、美しいエロティックなものというより猥雑で粗で辛いものをイメージしてしまいがちだったのです。

Kが師事しているのは、現代「ロープアーティスト」として名を馳せた緊縛師、Hajime Kinokoさんです。彼の写真を初めて見たとき、私は素直にその仕事の美しさに舌を巻きました。赤い縄で縛られた女性が、神様のような表情で佇んでいる。ゴールがセックスではなく、拷問でもなく、ただ美しくあるため、美しくなるための縄を初めてみて驚きました。そしてその写真を眺めるKの横顔を眺めながらしみじみと思ったものです。「この人こういうのが好きなのね」「ああ、面白い。美しい」「この男を絶対ものにしたい」

 

話は一旦脇道に逸れますが、Kと私の関係はとても"特殊"だと思います。もちろん、恋人であり、サド/マゾの関係があるだけで十分以上に特殊なのだと思います。ここでいう特殊性とは形式的な関係の名称として、ではなく、あくまでも私たちだけの間に流れる不思議な力関係のことです。

もちろんセックスにおいて、Kが空間と肉体を支配しているのは必定。私たちはその点において完全に需要と供給が一致していて、彼の意の向くまま私は苦しみに耐え、息を殺し、時に泣いて溺れるように体を求めます。

私は彼に体を支配される時、虐げられるとき、どうしようもなく居心地が良く安心します。それがマゾヒストとしての快感なのだと言われれば、確かにそうなのでしょう。しかし、それだけではないのです。私を見下ろし嗤うKをみるたび、私は狩りをする時のような残酷な喜びを禁じられません。

私は私を支配させることで、彼を支配している。

私たちのパワーバランスが特殊で、そうでありながらもう少しのところで崩れず、絶妙に均整のとれた美しい形をしているのは、お互いがお互いの上に立ちお互いの支配者であると自覚を持っているからなのです。その、捻れ、頽れ、壊れかけた形を掬い、正して編み直し、時に舌を這わせて味を確かめる行為こそが私たちを強く強く結びつけていると、私は深くそう思います。

 

私の体には、赤い首輪と赤い縄がよく映えると、Kは言います。死体のような嫌な色をした私の肌の上に縄と首輪を這わせると、Kはいつも嬉しそうにするのです。それを美しいと、綺麗だと。彼はそう言います。

私にとってそれらの赤いものたちは、自分を形作る籠なのです。本来ぐにゃぐにゃとして、人の形を保っていない私の自我を固めるように赤い縄が体を囲む。それで形作られたヒトガタの中で、私は静かに息をして目を開きます。その時に見えるいつになく真剣なKの鋭い目つきを見るたび、やはり私は繰り返し、繰り返し思うのです。

『ああ、絶対にこの男を手放さない』。

それは残酷な気持ちです。蟻地獄で餌を待つ生き物もこんな気持ちなのでしょうか。深く深くへ落ちてくる彼を、私は息を殺して待っているのです。しかしその残酷さはあまりに純粋であるがゆえに狂気、それと同時に神に祈るような敬虔な気持ちにもなるのが、なんとも不思議です。そう思わせているのは、もしかしたら私が彼に支配されることを心の底から望んでいることの証明なのかもしれません。

 

こんなことを言ったらまたKに怒られそうですが、私の目に彼は抑圧された子供のように映ることがあります。甘え上戸で人懐っこいと多くの人に思わせうまく付き合っているくせに、本質的に自分をさらけ出して甘え、承認を得て安心することができない人なのです。

だから私が彼を受け入れることは、彼を籠絡して行くことに他なりません。Kは頭のいい人ですから、自らわかって私の罠に嵌りに言っているのだろうと思います。でもそれはお互い様。彼が私を美しく縛るたび、私は涙が出るほど嬉しいのです。そうして、悍しいほど獰猛な自分の本質に気付く。

 

Kの憧れだった赤い縄や赤い首輪は、今はもはや私の形を作る枷、籠、あるいは容れ物になっています。彼は、私という存在をその容れ物を通して感じるのです。入れ物の中に何が入っているか、そっと箱を振って確かめて見る。予想通りの音がなる。そっとその箱の蓋を開けて、安心する――今夜も私は赤い首輪を身につけます。赤い首輪のリードの先、彼の握る手綱もまた赤色なのです。

 

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盲蜥蜴と小夜啼鳥の寓話

夜を切り裂き飛び回る小夜啼鳥と、その天敵である盲蜥蜴。彼らはかつて仲良く暮らしていたことがあるのをしっていますか。小夜啼鳥も、盲蜥蜴も、昔持っていた目玉はひとつずつ。ひとつの目しか持たない異形同士、身を寄せあい助けあい、しあわせに穏やかにくらしていたそうです。

ある時、小夜啼鳥は鷹の婚礼に招待されました。悠々とした鷹の晴れ姿、そんなところにとても片目ではいけはしないと嘆く小夜啼鳥に、盲蜥蜴はいいました。

「いいだろう、僕の目玉を貸してあげよう」

盲蜥蜴は枝でもうひとつの目をくり抜き、小夜啼鳥に渡しました。二つの目玉を手に入れた小夜啼鳥はすっかり気分が良くなって、そうして二度と盲蜥蜴に目玉を返すことはありませんでした。

目が見えなくなった盲蜥蜴は、ただそっと、小夜啼鳥の巣がある菩提樹の根元に体を寄せて、小夜啼鳥の卵が巣から落ちてくるのを待っています。夜空に響くのは、高いぞ、高いぞと声を張り上げ歌う小夜啼鳥の声と、低くうっすらと聞こえる盲蜥蜴のすすり泣きだけでした。

あまりに残酷であるが故に第2版改定の時グリム童話から削除されてしまった「小夜啼鳥と盲蜥蜴のはなし」。私は未だかつてこれが日本の文献で文字になっているのをみたことがありません。それ程、グリム童話の中でも知名度が低く悲しいのがこの寓話です。このお話が、私はとても好きです。

 

正直にいって、Kの明るい面を目の当たりにしてこんなに辛くなるなんて思いもしませんでした。たくさんの人に囲まれて笑い合い声を張り上げる彼は確かに魅力的で、そんなKに惹かれる自分がいるのも事実。だからそれを責めたり妬むのはお門違いなのです。私は自分の人間としての不完全さを、白い大きな壁に向かって詫びずにはいられません。

日陰生まれ日陰育ちの黴のような人生でした。直射日光に当たると湿気が足りずに死んでしまう蛞蝓のような生活をしてきました。どうせ日の元では生きられないのだからと、影から光の筋を睨みつけて生きてきました。

明るい顔をしたKと関わる人たちを、私は注意深く見ていました。ああ、罷り間違って彼があの人たちの誰かに恋してしまったらどうしよう。「やっぱり自分は日向で生きていくのがあっている、日陰のじめついた黴の匂いは面白いけれど少し違う」と、Kが気づいてしまったらどうしよう。情けない話ですが、私は自分が彼に選ばれたことすら忘れ、ひたすらそのことに怯えていました。

 

盲蜥蜴というのは極めて醜い蚯蚓や蛇のような生き物です。目は退化して見えず、手足もないので地面を這いつくばって生きています。一方の小夜啼鳥は美しい羽を持つ綺麗な鳥です。なぜこのグリム童話にこの二匹が選ばれたのかは定かではありませんが、少なくともこの二匹は釣り合いません。

私はこんな想像をして悲しくなります。片目しか無く世界をしっかり見ることのできなかった小夜啼鳥は、両目を手に入れまじまじと見た醜い盲蜥蜴の顔にすっかり嫌気がさしてしまったんじゃないかと。高い高い木の上光の世界で生きていって、闇の狭間においてきた盲蜥蜴のことなどいつかすっかり忘れてしまうのではないかと。それを知っている盲蜥蜴は悲しくて悲しくてたまらなくて、もう一度小夜啼鳥と一緒にいたくて、その卵を狙っているのではないかと。

 

もし、と思ったのです。私と一緒に陽の当たらない影で寛いでいたKは、ふらりと日向へ歩いていって。ふと振り返った時闇の淵から出られない私を見て。「ああ醜くてつまらない」と思ってしまうんじゃないかと。

たとえKがそちら側で生きていくことを決めたとしても、私は止められません。追いかけることも多分できません。ただ日影からは出られないまま「おいていかないで、そっちにはいけないの、いやだ」と細々泣くだけなのです。遠く遠くへ行ってしまうKの背中を悲しく眺めて、ああ彼の残滓が落ちてきやしないかと狙い続ける。

Kは本当に素敵な人で、それに比べて私のなんと醜いことか。容姿が美しいわけでも、体の均整がとれているわけでも、とびきり頭がいいわけでもなく、特別な才能もなく、できることといえば当たり前なことを当たり前にこなしていくことだけ。Kの周りの人たちは、Kの周りにいるのにとても相応しいように見えました。明るくて、キラキラして、私なんかとは全然違う。

私は暗い気持ちで考え続けました。こんな人素敵な人がどうして私のことなんて好きになってくれたんだろう、もしかしてこれは全部わたしの孤独が生み出した妄想なんじゃないだろうか、きっとそうだそうじゃなきゃこんな明るくて素敵な人が私みたいな、盲蜥蜴みたいな女を愛してくれるはずもなかったんだ、ああ早く頬をひっぱたいて目覚めなくちゃ、夢を現実だと勘違いして執着してしまう前に元の世界に戻らないと、もっと不幸で暗い場所へ。

そこまで思考を追い込んだ辺りで、私はどうしようもなくなって隣で眠るKの背中に抱きついて吐き出すように不安を語りました。Kは笑いました。「そんなことだろうと思ったよ」。

その軽やかな一言に、一瞬私は腸液がぐらぐらと煮えるような感覚を覚えました。そんなこと? 一体何が? 私はそれで悩んだのに――でもそれは一瞬でした。Kのあまりに穏やかな顔と、私の頭を撫でる手を受けたら、煮えた思いはあっという間に気発し、ふわふわと空気に溶けて何処かにいってしまいました。

そんなこと、彼のいうそれはどうでもいいこと、という意味ではなく、私がそれを悩む必要はないのだよ、という道標だとすぐわかったのです。

 

私は確かに何もできません、彼が愛してきた人の中には私よりも可愛く素敵で聡明な人がたくさんいたでしょう、でもこれだけは正しいと言い切れます――私は彼の影のよりどころとして選ばれたのです。そのことをもっと誇り、できることからやっていかなくてはいけない。

毎日彼のお弁当を包むことが、彼の帰りを笑顔で出迎えることが、彼の表の幸せにきっと繋がっていくのなら、私はそれで構いません。みんながみんな表の彼を愛するだけではだめなのですから。

裏の彼が欲するのは、数少ない人からの、絶対的で圧倒的な揺るがぬ承認。

 

私は私しか彼に与えられないものを持っている、持っていないのだとしたら必ずそれを得る。だから心配することなんてないのです。私は確かに可哀想な盲蜥蜴なのかもしれません、それでもKがそっとこちらに降りてくることを信じて待てば願いは遂げられます。

 

 

私はすぐに起き上がって、一週間のお弁当の支度や夜ご飯の準備を始めました。私は私の価値を信じます。目玉を取られすすり泣くだけの蜥蜴にはならないのです。また一週間が始まりました。

Re:

初夏の匂いがします。雨が降ったり寒くなったり、不安定で寂しげな春はあっという間に過ぎ去ってもうすぐ夏が来るようです。どうもここのところ年々、春というものが短くなっている気がします。一体それは、慌ただしい年度の初めを味わう余裕がないだけなのか、地球温暖化のせいなのか、私の感性が鈍ったのか、定かではありませんが、ともあれ今日はすっかり夏の気配が其処彼処に滲んでおります。

卒業や巣立ちは涼しい時期に訪れるものと相場が決まっております。これからあつくもなろうというこの頃に人生の区切りがあるなんて、一年前の私は想像もしなかったでしょう。

あゝ。金子みすゞのような溜息をついて私は実家の家の鍵を閉めました。強迫的に何度かがちゃがちゃと扉が閉まっている事を確認して、私は背を向けます。一瞬鼻の奥が痛んだような気がしました。実家を離れる感傷が、まだ私にも残っていたことが驚きです。いつでも帰って来られるけど、二度とこの家に帰属することはないのだろうと思うと、少し寂しい気がしてきました。

 

本日5/24、今日はおそらく私の人生の大きな区切りの日です。本日から私は恋人であるKの家に移り住み、一緒に暮らし始めます。

 

私の生家は名家も名家、父は陰陽師安倍晴明の血を引く旧華族家系の長男、母は尾張の大地主の娘。お見合いで出会った二人は瞬く間に恋に落ち家のしがらみなど捨てて二人の愛だけで生きていこうと流れ着いた先が港町横浜、最終的に二人の愛を認め合った父方母方両家からの支援を受け悠々自適に暮らしつつその寵愛を受けて育ったのが私――というのは全て嘘です。私はごく普通のサラリーマンの父と自営業を営む母の元生まれ、22年間の殆どを両親とともに暮らしておりました。

実を言うと、実家を離れるのは初めてではありません。一度目は三年ほど前、大学に進学した時です。首都圏暮らしの長い私は何故か地方都市の大学に進学し、1年間を学生寮で、1年間を仲の良い友人と二人でアパートを借りて生活しました。なので、生活費を自分で何とかすることや、自分の世話を自分ですること、あるいは血の繋がりのない誰かと共に暮らすことは、厳密に申し上げると経験済みです。ただ今回実家を離れ恋人と暮らすと言うのは、自ら22年暮らした生家への帰属を放棄することでした。恋人と同棲しようと思うと伝えた時、父は私にいいました。

「君の人生だ反対はしない。たけど本当にその気なら、決着がつくまで帰って来るな」

父のいう決着と、私の思う決着が一致しているのかどうか確かめることはしませんでした。それでも私は頷いて家を出ることにしたのです。

 

19歳で家を出て、一度一人暮らしを経験して、実家に舞い戻ってきたのは21の時。簡単に言えばお医者様の助言を受け実家に帰る事を決めました。一度自分の生活を自分で管理する事を覚えてしまうと、そのあと誰かに口を挟まれるのは嫌なものですが、実家に戻った当時私はそんなことも考えられないほど疲弊していました。大学は一旦休学扱い、しばらく静養していた私がある程度気力を回復させ、働き始めたのが去年の12月です。

アルバイトとして働き始めた私を、社長はすぐに社員にならないかと誘ってくれました。しばらく悩んでいたのですが、2月の頭ごろには概ね考えを固め、次の休学申請が通ったら正社員になろうと決めていました。やはりその時私は自立する事を強く意識しました。

社会人として生きて行けるほどの十分なお給料をもらって、まだ生家にしがみつく理由があるのか、と。未だに私には家族というものの価値がよくわからないのです。私は一人娘として、とてもとても愛され手塩にかけられて育てられましたが、私と母の関係や、私と父の関係はどうにもこうにも歪んでいて、でもその歪みはすでに私たちの生活においては当たり前になっていて、修正することはおろか、自覚することすら難しくなっていたというのが、我が家の実情でありました。

ある時親しかった男性と、こんな会話をした記憶があります。

「君とお父さんの関係はおかしいよ」と、彼は言いました。私はざらりとした声で返しました。「あなたお母さんとセックスできる?」「できるわけない」「それが普通?」「普通だと思う」「じゃあ私普通じゃないかも。私お父さんとセックスできる」。

そもそも血が繋がっているだけで発生する無条件の愛などなく、見返りのない投資を行う人もいない。そういう前提が崩れ紐解け再構築されたような両親との関係は、心地の悪さなど感じないくらい私の髄まで染み付いていました。

 

一度目、生家を離れた時私はあまりの自分の”何もできなさ”に戸惑いました。何もできない、というのは、家事ができない洗濯機の回し方がわからない風呂の洗い方がわからない、そういう話ではないのです。

いつ、ごはんを食べていいのか。

いつ、お風呂に入ったらいいのか。

いつ、お洗濯をしたらいいのか。

いつ、友達と遊んでいいのか。

いつ、勉強をやめたらいいのか。

それが私には全くわからなかったのです。しかし人間は適応能力の高い生き物、思考を求められればそれなりに脳は発達し動くようになってきます。おかげさまで二年もすれば私は立派に生活することができるようになり、部屋はいつも綺麗で、ご飯は作り置きがあり、洗濯物をお日様の下干すのが大好きな人間に生まれ変わりました。

一度そうなってしまえば、やはりバージョンダウンは難しいもので、生家に帰ってからというもの、特に体調がある程度回復し思考力が戻ってきてからというもの、私は違和感と窮屈さを禁じ得ませんでした。

だから就職を決めた時、とりあえず少し落ち着いたらどのみち家を出て行こうと、私はそう腹を決めたのです。それが二月のこと。その時はまだ、まさかその直後にできる恋人の家に転がり込むことになるとは思ってもいなかったのですけれど、人生って不思議。

 

一人暮らしは孤独ですが楽なものです。好きなだけきっちりすることができるし、好きなだけだらしなくなることもできますから、それはもちろん快適です。誰にも邪魔されない犯されない自分だけの空間を持てるのですから。それでもなお、私がKとすんで見ようと思ったのは、純粋になんだかそちらの方が面白そうだったからです。

私はあまり自分の生活というものに、こだわりやかんがえがありません。比べるとKは、私より随分生活のこだわりが多いような気がいたします。Kの家によく来るようになってから、使っているシャンプーや日用品の銘柄に、私は唸ったものでした。しかしそこは無色透明の私、生活様式は合わせることができます。それどころか、こだわりがある人と暮らすのは私にとってはとても楽なのです。思考しないということは、膨大な選択肢から何かを選ぶ基準がないということ。それであれば、基準がある人に選んでもらう方がずっと良い。私はKの感覚を信頼していますから、それに任せて見ようと思ったのです。

こだわりやかんがえのなさ、というのは、日常生活以外にも及び、随分無趣味で引きこもりがちな私に比べてKは「あれをやってみたい」「ここにいってみたい」「自分ならできる気がする」という人。私はそのKの「やってみたい、してみたい、やろう」という動作に、基本的にすべて乗りかかって行くことにしたのです。

もちろん面白いというだけではありません。私はKといると、なぜかよく眠ることができ、普通に食べることができます。普段だったら異常があって当たり前の私の生理機能がきちんと働くのです。それを人々は安心感とか、リラックスしている、とか、そういう表現をするのかもしれませんね。まさに万薬。全く面白い人です。

 

Kは私とおつきあいをする前、こんなことを言っていました。

「恋人と喧嘩したことがない」「だから、不満を溜め込まれて突然爆発されるのはとても嫌なんだ」「次付き合う人とはちゃんと喧嘩したい」「喧嘩したいっていったら違うけど」「ちゃんと向き合って話し合って乗り越えて、みたいなのをしたいなって思ってるんだ」

人と向き合う、とみんな簡単に言いますが、私は人と顔を突き合わせて向き合うなんておぞましい真似、今まで真剣にやったことなど一度もありませんでした。向かい合って何になるというんでしょう。どちらかが目をそらすまでの我慢大会ならやらなくても構わないのです。――その一方で、それで失敗してきていたのも薄々わかっておりました。向き合うというのは恐ろしいこと。人は常に鏡です。深淵を覗く時深淵もまたこちらを、毒を食らわば皿まで、つまり人の問題を指摘するのであれば自分の問題に向き合わなくてはいけないのです。私はそういう、解決や向上から逃げてしまう節を自覚しつつ、直せないままずるずると生き延ばしていました。

だからKがそう言った時、というよりも、その向かい合いたい対象が私であるとわかった時、私は痺れるように恐ろしかったし、でもとても、とても、嬉しかったのです。誰も私の醜い顔など見たくないと思っていたから、私は顔をそらし続けていたのかもしれない。だから、頬に手を当て顔を覗き込み、しっかりこちらを見てみなさい、怒らないから伝えなさい、と言ってくれる人がいたのが、とても嬉しかった。

私はKに対して誓ったのです。付き合い始めたその日の夜に。

「いろいろ大変なこととか、考えなきゃいけないこととか、すり合わせなきゃいけな価値観とか、あるとおもうし、そういうの苦手だけど、がんばってみるから、いっしょにがんばりましょう。よろしくおねがいします」

私は彼の家に約束を果たしにきたのでしょうか。乗り越えなきゃいけない試練がいくつも降りかかって来るだろうことを考えると、私はときどきたまらなく憂鬱になって、ふっと逃げてしまいたくなります。今はまだ幸せだから。いまはまだ楽しいから。幸せな記憶は冷凍保存、今手放せば永遠になるから、そんな美しくラミネートされた言葉を並べ立てて逃げる口実を探したくなります。でもそれをしないと、したくないと、しないで生きてみたいと、生半可な覚悟ではなくそう思ったから、私はこの家にやってきたのだと思います。

 

荷物は、大型のトランクひとつぶんでした。お着物と、大切な服、仕事道具だけをもって、私は新しい住処にやってきました。家の人は誰も私を見送らなくて、いや、私が見送らせなかったのかもしれません。私はひっそりと、少しやましいような気持ちで家を出ました。書き置きと、夜のご飯だけつくってきました。

 

「おとうさん おかあさん ありがとう 無理せず頑張りすぎず楽しく幸せに暮らして来るね

しっかり仕事して お金もらって 遊んで、元気でやります。たまに帰ってきますね、いってきます。」

 

一瞬、やはり泣きそうな気がしました。でもこれはおそらく、再出発、区切り、折り返し、第二楽章、切り替え、スタート、ともあれそういうもの。本来人々が春に連想しそうな新しい何かを、たまたま私は今日迎えただけ。不安と期待で胸が苦しい。私は彼の期待に応えられるでしょうか。父の言う”決着”を自分の手でつけられるのでしょうか。

結果は推して知るべし、未来予測は誰にもできず、予知や予言は世迷言。やってみるしかないのです。動いたものにのみ未来は訪れ、腹を決めれば私は変わる。

 

そんなこんなでリスタート。今日の夜ご飯は、牛すじ肉のビーフシチューと、アンチョビ・たまご・ハムのポテトサラダと、パンナコッタ。同棲を始めたお祝いは次のお休みにとっておくことにします。ようやくKとの暮らしが始まるのだと思うと、やはり憂鬱な気持ちより、どきどきして面白くて楽しいことが待っているような気持ちの方が大きいみたいです。だって家に帰ったら好きな人と会えるんですもの。その幸せを上回ることって、この世にそんなにたくさんはない気がするのです。

時よ止まれ、

 

Verweile doch, du bist so schön!

時よ止まれ、汝はいかにも美しい!

 

この世の全てを知り尽くした天才ファウストの元に、ある時黒い犬が現れます。その犬は、悪魔メフィストフェレスが化けたものでした。

「学問を究めたあとですら利口になっていない」と嘆く老齢のファウストに、メフィストフェレスは契約を持ちかけるのです。その老いた肉体を若い体へと戻してやろうと。「そのかわりお前の魂は私のものだ」。そう笑う悪魔にファウストは言うのです。「ああもしその瞬間が訪れたら私は言うだろう、"時よ止まれ、汝はいかにも美しい"と」

悪魔と契約をしたファウストに、魂の救済は訪れるのか。ゲーテが描いたこの物語は長きにわたって人々に読み継がれています。あなたの契約という命題は人々をいたく惹きつけるようです。

 

 

Kと私の関係について考える時、私はいつもゲーテファウストを思い出します。悪魔との契約。私はKという悪魔によって幸せや喜びを保証されていて、その代わり私は肉体と精神の全てを彼に捧げる。最後には自分の眼球や、骨、魂までも彼のものとする。だとしたらそれはなんて甘美で厭らしいのでしょう。美への執念は悪魔主義者の専売特許、私はまさに美に浸り溺れる人生を選んだのです。

 

 

その晩、私とKはなんとも言い難い異様な空気感に酔っていました。私の頭は存外冷静で、いつもの余裕をなくして冷静さを欠いていくKのことをある種俯瞰してみていたような気がします。

私は自分の体に痣ができていく過程を美しいと思えます。死体のような肌色の体を叩き、引っ掻き、傷つけると、花が咲いたように赤くなります。Kは穂先の丈夫な乗馬鞭で、平手で、なんども私の肌を傷つけていました。

終いには張り倒すように頬への平手が、いっぱつ、にはつ、さんはつ、よんはつ、ごはつ。どれくらいの打撃を受けていたのか数える余裕はありませんでした。私は被虐の快感に打ち震えていました。私はこの人のためになんでもできる。なんでもできる。なんでも。Kの声は興奮に突き動かされるように裏返っていました。ただ繰り返すように「楽しいね」「楽しいでしょう」「楽しくないの?」、引きつって裏返った声で彼から熱狂を強要されていたのは覚えています。

"その瞬間"は唐突でした。耳は聞こえる、見えている、なのに体が、突然ピタリと動かなくなったのです。視線すら固定され、指先一つぴくりとすらうごかせなくなりました。頭だけは妙にはっきりと動いていました。どうしても唇が動きませんでした。息すら危うくつまりそうなところでした。

おかしいなにかがおかしい体に異常が起きている彼を止めなくてはそうじゃないと私は二度とこんな無理ができなくなる怖くて怖くて全てから逃げ出さなくてはいけなくなるそうなる前に意思を示さないとこれはダメだと度を超えていると本気で嫌だと怖いとやめてほしいとこれを求められるのであれば私は彼とは一緒にいられないそうなる前に止めなくてはとめなくてはとめなくては

 

「レッド、」

 

痛みに抵抗することも声を上げることもできずしばらく、それでも私の頬を叩き続け動きを止めない彼に向かって私は絞り出すように言いました。――その一言がKを熱狂から引き戻したのでしょうか。ふと我に返って次に目に入ったKの顔には驚きと恐怖に近いものが滲んでいました。頭の血管がプツリと切れて何をしていたのかわからない、といった様子でした。

ずいぶん古典的な方法ですが、サディストとマゾヒストが関係を持ち、その関係が暴力や精神攻撃に近しい形になっていくのであれば、我々は責任を持ってセーフワードというものを決めなくてはなりません(世の中には信頼関係に依存しセーフワードを定めないカップルもいるようですが)。

セーフワードは、とにかく「その言葉を口にしたら全部止める、何か異常が起きているサイン」です。どうしても暴力が伴うことなので、攻撃される側は「いやだ、こわい、いたい、やめて」と口にすることがあります。だからこそ、セーフワードはプレイ中に絶対に口にしないような言葉。私とKの間に定められた言葉は赤信号のレッド、でした。

それを口にしたのは初めてでした。言う必要があるほど追い込まれたこともなかった。正直に言うと、セーフワードなんて場をぶち壊しにしてしまうもの、私が言うわけがないとタカを括っていた節はあります。だから私は逡巡しました。体はまだ痛みに耐えられた、精神的にも問題はなかったのに、何かが私に不可抗力のストップをかけたのです。

体が動かない私を、Kはしばらくどうしていいのかわからないと行った様子で見つめていました。ただ、それがただ事ではないとわかるまでに時間はかかりませんでした。

「からだがうごかないの、うごかなくなったの、どうしてかわからないの」

「ごめんね、なんでもはできなかったよ。なんでもはできなかった」

「なんでもするっていったのに、ごめんね」

ようやく喋れるようになってからも、私の舌はしばらく痺れていて、回らない呂律で私はそう繰り返しました。体が動くようになってからは、Kがその掌を私にむけるたびに私の体は恐怖に震えて跳ね返りました。嫌がるように抵抗するそのバネのような動きが私にも制御できなかったのです。Kはぼろぼろと泣きながら繰り返していました。

「なんでもなんて出来なくていい」

「何かがおかしかったやりすぎた」

「大丈夫、何もしない、何もしないから」

私と同じくらい、もっと言えば私よりもさらにKは怯えていました。自分が取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと。そうではないと伝えるために彼の頬に手を伸ばして撫でながら、私はぼんやりと思いました。

 

ああ、私が悪魔と契約したんじゃない。私が彼を、悪魔と契約させたんだ。悪魔は私。私は彼に万能の力を与え、その代わりにすこしずつ少しずつ人間性を削り取っていく契約をした悪魔なのだと。

 

もしそうなのだとしたら、私は悪魔失格です。私はあと一歩、セーフワードを口にしなければ彼をもっと堕落させられたかもしれないのです。人を殴り苦しめることに快感を抱くようになったら、それでしか悦びを見出せなくなったら、それこそ彼は彼の人間性に見切りをつけなくてはなりません。そしていつか彼は、私以外の選択肢を見失う。まさに魂の陥落、思う壺です。でも結局、そうなる事を望まなかったのは私でした。

死んでもいい、壊れてもいい、だから彼を私のものに、ということができたのに。みすみすその機会を逃したというわけです。

 それは多分、私が幸せを掴む方に賭けたということなのでしょう。覚悟を持って幸せになること。まだ全ての時を止めるには惜しいということ。悪魔にしては甘ったれています。さて本当に悪質なのはどちらでしょう、魂を食おうとする悪魔か、悪魔を利用してやろうと舌なめずりをする人間か。でもなんだか、マゾヒストの悪魔と契約したサディストの人間、なんて。少しグリモワールな感じがして愉快な気もします。私らしい。私たちじみている。

その時が来て彼が満足したら、私は必ず彼の肋骨の間に指先を差し込み、かけらまで魂を食べてしまうと誓いましょう。その時まで必ず彼を見届けると。だからまだあともう少しだけ、幸せな時間を。時を止めるにはまだおしすぎる。

 

今度何かのついでに神様に会うことがあったら聞いてみようと思います。「悪魔も好きな人と添い遂げられるでしょうか?」。きっと神様は鼻で笑うでしょう。それでいいのです。アノミー。私たちは赤いボーダーと、緑に囲まれた光り輝く時間だけを信じて生きていくのです。

 

In WonderLand

アリス=リデル。永遠の少女の象徴。キャロルが書いた「不思議の国のアリス」のモデルと言われているイギリス人女性です。彼女はなかなかに波乱に満ちた生涯を送っています。3歳でキャロルと出会い、のちに20歳も離れた彼に求婚されたとか、されていないとか。一国の王子と恋をしたとか――まさに主人公の中の主人公。

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私は小さい頃から「不思議の国のアリス」が大好きでした。長い金髪で、青い目で、ふんわりとしたエプロンドレスを着たアリスに私はずっと憧れていました。あんな風になりたいと本気で思っていたし、それが少女性、処女性の象徴だとわかった後も私はそのイメージに固執し続けました。まさにあれが私の理想の根源なのです。

私がアリスになれないと気付いたのは、もうずっと昔の話です。自分は不思議の国には行けない、大きくなったり小さくなったりする薬を飲むこともない、帽子屋とお茶会を楽しむこともない、猫のダイナと戯れることもない。それでもアリスのイメージは私の中に影を落とし続け、今でも、金子國義テニエルの描いたアリスを見るとドキドキするのです。懐かしい気持ちとともに、やはり潰えない憧れと愛しさが込み上げてきます。

 

 

昔話です。

元恋人、Sに私はずっと「エリカ」と呼ばれていました。ジャノメエリカというお花が由来だそうです。桃色から薄紫に見える花弁の中央には黒いぽつりとした点があり、それが蛇の目のように見えることから名前がついたそうです。ジャノメエリカ花言葉は、幸運、博愛、孤独、そして裏切り。

私は「エリカ」という名前で呼ばれるたびに、自分の輪郭が崩れていくのを感じていました。

エリカという名前は、Sの理想の女性の容れ物でした。身の振り方を弁え三歩下がって付いて行くような貞淑さ、甲斐甲斐しさ、忍耐強さ、それとは正反対の子供っぽさとお嬢様的わがままさ。そう言う極端な性質を併せ持つ、旧時代の少女的人格が、私には名前と一緒に与えられたのです。私は人工的に自分の中に、都合のいい「エリカ」を作り出していきました。

そういえば、Sに別れを告げられたそのもう少し前、私はこんなことを言われました。

「君のそういう、女子校っぽいところすごく嫌いだ」。

女子校っぽい、も何も私は女子校出身者です。彼がどのような意図でその言葉を放ったのかはわかりませんが、もしそれが、私の極めて独立した、ある種男性的で快活な面を"女子校っぽい"と称して嫌うのであれば、おそらくそれはどうしようもない、「私」と「エリカ」の乖離だったに違いありません。

事実、私は人格が二つに割れてしまったかのようでした。少女的で甘ったれた「エリカ」と、冷たく合理主義だと言われる「私」の距離はどんどん開いていき、ついに取り返しのつかないほどになったのです。私は自分の中にいた「エリカ」を、もう一欠片も見出すことができません。

 

 

ようやくこの記事の本題。私はご主人からお名前をいただきました。

 

斯斯然々ありまして、私は恋人から名前をもらう、というのが初めてではありません。「恋人から名前をもらう」というあまり一般的でないことを人生の中で複数回経験しているというのはなかなか面白いですね。

元来、自分の本名にはあまり執着がありません。本名が私に似合っているかと言われたら、似合っていないかもしれません。自分ではわからないものですよね。ただ記号としての役割を十分以上に果たしてもらっている自分の名前には感謝はしております。

最初やはり、ご主人が「名前を決めよう」と言い始めたとき、私は不思議な気持ちになりました。ご主人は私が「エリカ」と呼ばれていたのを知っていますから、それに密かに嫉妬なさっていたのかしら、だの。やはり人は飼い犬に名前をつけることで自分のものにするのかしら、だの。

でもやはり、名前を与えていただけるのはとても嬉しいことです。私はそれを、首輪と同じく独占欲の一つの形のような気がしていました。所有したいと、誰にも渡したくないと、自分のものだと思ってくださるのはとても嬉しいことです。

 

――しかし、ご主人に名前を与えられて、何度かその名を呼ばれて。気付いたことがあるのです。ご主人が私に与えてくださった名前と、Sがかつて私に与えた名前は本質的に何かが異なっているのです。これはなんとも説明の難しい感覚です。

おそらくSが私に与えた名前は、すでに理想像の完成した器だったのだと思います。

そして、ご主人が私につけた名前は、親が子供に与える名前と同質のもの。これからその名前とともに成長していくことを許されているのです。ご主人はきっと、私のことを、責任をもって飼ってくださるでしょう。

 

私はご主人につけていただいた名前を呼ばれるたびに、あやふやでぼんやりとしていた自分の形がはっきりわかるようになるのです。自分の体が自分のものであったことを思い出します。

彼の声によって沈んでいた自我を取り戻し、

彼の手によって境界がなくなっていた自分の体を思い出し、

そうして形を持った自分の体で文字を書き、日々を暮らし、自ら選んで彼のそばにいるのだと。この与えられた新しい名前を呼ばれるたびに思うのです。

私は、元々の私も、新しく名前で呼ばれるようになった飼い犬の私も本物だと断言することができます。それは私のご主人に裏と表があるのと同じこと。裏と表は真と偽ではないのです。私の裏と表は、ご主人の存在によってゆったりと混じり合い、綺麗な色を作ってくれるのかもしれません。

 

遅ればせながら、改めて自己紹介をさせてください。私の名前はアリスです。名前はご主人からいただきました。この名前とともに、彼の隣を歩けるような素敵な女性に、素敵な従者に、成長していこうと思います。